2011/5/9訪問
今年(2011年)の大河ドラマ「江」のキャンペーンで、小谷城址の麓(伊部親水公園)には集落に模した展示館や屋台などが設置されてました。 その場所から有料ですが番所前までの定期便バスが出ていましたが、それに乗ってしまうと大手道~出丸~金吾丸跡に行けないので迷わず登山コースに挑戦です。
初っ端から結構な登り坂です。 この日の気温は5月とは思えないほど暖かく、早々に上着のパーカーを脱いでタンクトップ1枚になりました。 まず出丸跡まで一気に登ります。 振り返ってみると先ほど通過した麓の集落が見下ろせます。
そうこうするうちに目の前になかなかの高さの土塁が出現。 正確にはわかりませんが2m強といったところでしょうか。 右に回り込むと曲輪への入り口がありますが、あえてまっすぐ土塁斜面を登ってみましたら、結構すんなりと登れました。
下段の曲輪です。 ここは二段の曲輪になっているのですが、何故か下段から上段に行くには一旦外に出て上段の入り口から入るようです。 もちろんここも斜面を登りました。
先ほどよりは低いので楽々ですが、切り倒した木や切り株が斜面に転がしてあるのでかなり邪魔です。
出丸の上段曲輪で、人物スケールは150cmです。 下段に比べると格段に広いですね。写真の左手は谷になっています。 木や草のせいだけでなく下が見えません。。
出丸上段曲輪を主郭側に下ると、立て看板を発見。 主郭側から登るという前提で立ててられているのでしょうか。
その後車道を少し歩き、再び山道へ。 清水谷から上がってくる大手道とここで合流するようですね。
「大永五年(一五二五)七月、江南の六角定頼が小谷城へ来攻した際浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。 越前軍が布陣した地をそれぞれ金吾丸・真柄峠と称するが地元では古くから『間柄峠』として伝わる」 との立札。
そこから少し上に上がると望笙峠があり、ここは写真スポットらしくバス停が設置されています。 ここまでの登りはかなりきつかったです。日陰が無いのも原因の一つでしょうね。 しばらく景色を眺めながら一休み。 まだ1/3も進んでいないのにこの疲労…バスに乗車しなかったことを後悔しました。
ここからの大手道には張り出した枝が木陰を作ってくれていて体力的には非常に楽になりました。 この道の左右、平坦地なんです。左に5、6m進むと清水谷の斜面に行き着くのですが。 本来の道幅はもっと広いのでしょうか。
10分ほど進むとようやく金吾丸址へ到着。 ここの登り口は階段が敷かれていてとても親切です。 主郭側からすぐに来られる場所なので訪れる方が多いからなのでしょうね。 金吾丸に登らずに清水谷側の大手道を抜けてくることも可能です。
金吾丸の登り口(登山道側からは降り口)の目の前にはバス停があり、下からバスの方はここまで来られるようです。 今は乗用車の乗り入れは出来ないようですね、以前はここまで来られたらしいのですが。
番所跡です。 一番大きな曲輪部分は綺麗に整備されているのですが、その周りにある腰曲輪は草木が生い茂りすぎて全体像がつかめませんでした。 かすかに林道らしきものもあったのですが、それを進むと戻ってくるのに一苦労そうなので今回は断念。
御茶屋跡へ行く途中、右に進めば「本丸」方面へ向かう道ですが、そのまま直進すると清水谷側へ回り込む道がありました。 最初はまあまあの道幅があり林道かな? と進んでいくと、斜面に竪堀が! 竪堀部分で道が寸断されていたので、斜面に生えている木の根や枝を掴んで向こう側へ渡り、しばらく歩くとまた竪堀が。 途中倒木があり、連れがこれ以上は無理だというので引き返しましたが、そこまでで大体6、7本の竪堀がありました。 大きいものだと2m近くあるのではないかと思うほど大きなものもあったので渡るのも一苦労。 後で調べてみると、そのまま行けば京極丸直下の「大野木土佐守屋敷跡」へ行けたようです。
主郭部最先端の曲輪です。 写真の右奥に見えるのがL型の土塁です。
御馬屋と称されている場所で、三方を高い土塁で囲まれた曲輪です。 名称通り実際に馬小屋があったかは意見が分かれているそうです。 御馬屋の右手・桜馬場の斜面には石垣があり、その石垣に取りつくことを防ぐための水堀(通称:馬洗池)が掘られています。
攻め手の気持ちに浸ろうと、水掘を越え石垣に取りついて桜馬場下斜面を登ってみました。 中腹に切り倒した木が横倒しになっており、それが足場になったので滑り落ちることは避けられました。
登りきった斜面から眺めた御馬屋です。 御茶屋側の土塁がよくわかります。遠望もすばらしいです。 登った所に観光のお客様がいらして物凄くびっくりされていました・・お騒がせしました。
桜馬場は黒金門の南に位置し、南北に長く東西2段の曲輪で構成されています。 ちょうど私が登ってきた南西端部は虎御前山を見張る最適な場所だったようです。 せっかくの眺望は城を攻めることに夢中で撮影し損ねてしまいました。。 次回登った時には必ず撮ってきます。
大広間へ至る黒金門です(人物スケールは150㎝です)。 下から登ってくると、一旦桜馬場の入り口側に折れ、左右に張り出した石垣の中央にある階段を上ります。
大広間(別名:千畳敷)は南北85m・東西35m、小谷城址の中で最も大きな曲輪です。 ここでは建物跡が検出されているほか、石組の井戸跡や蔵跡が見つかっています。
高さ約4mの石垣が積まれ、その上に本丸(別名:鐘ヶ丸)があります。 周辺にたくさんの石材が転がっていたので、おそらく積みなおした石垣だと思われます。 野面積みですね。 正面(南面)の石垣はよく残っているのですが北面・東面・西面の残りはあまりよくないです。 そして本丸の写真を撮り忘れてしました。上へ登った時点で見事な大堀切を発見し、そっちに気を取られてしまったからです。。
少しわかりにくいですが、本丸を左回りに進むと道のほぼ2/3まで出っ張った石組があり、本丸の上部まで続いています。 一見これも本丸への登り口かと思ったのですが、説明板の絵図を見る限り登り石垣のようなものではないかと推測しました。 本丸を回り込んできた敵に対して入り口を谷側に寄せて一気に進入するのを防いでいるのでしょう。 ここの西下にお局屋敷跡があるのですが、上からは斜面を降りる道がどこかわかりませんでした。
本丸と中丸の間にある大堀切です。 堀幅が広いだけでなく、その左右にある斜面(元は石垣)の高さがとにかくただただ圧倒されます。 人物スケールが抜けているのがとても心残りです。 上から覗くと足が竦んでしまうくらい深いです。 バスで来られた団体さんは本丸からこの堀切を覗いて帰って行ってしまいました。 地元のボランティアガイドさんが案内なさっていたようです。
中の丸は曲輪が南北に三段あり、一番上の曲輪の東側に刀洗池があります。 この三段の曲輪は低めですがすべて石垣で固められていました。 一番下の三段目から一段目まではほぼまっすぐに登ってこられるのですが、その上の京極丸には刀洗池側に回り込んで側面から入る構造になっています。
京極丸は南北四段の曲輪があり、浅井氏が守護京極氏の居所として用意したところといわれています。 清水谷側の枡形虎口のある曲輪には今回行き着けなかったので、次回登城の際は必ず行ってみたいです。
二代城主・浅井久政が移住した場所と伝わる小丸です。 東西二段の曲輪からなっています。
山王丸の馬出部分は石材がごろごろしていてとても歩きづらいです。 説明板によると、これは破城の痕跡なんだとか。 修復して綺麗になったものもいいですが、往時を偲ばせるこういうのもいいですね。
山王丸の東側には大石垣が往時の姿で残っています。 今までのものよりも大きめの石が用いられていて高さは約5mもあり、本丸の石垣の規模を上回っているそうです。 ここも登ってみました。 野面積みなので登りやすかったですが、苔で滑りやすいのでご注意を。 あと、登った上は生い茂っている低木の下をくぐっていかなければ広場に出られません。
ここが山王丸、主郭の一番北側に位置します。 昔は山王社が祀られていたそうです。
山王丸中央に土塁があり石垣積みになっています。 六坊跡や大獄城跡側からの進入を止めるためのものでしょうか。 登山口から登り始めて約2時間、やっとこ頂上に到着です。 この先は一気に六坊跡への下り道で、ジグザグに道を作ってあるのですが下を覗くのがとても怖い感じです。 ここまでの登城で足がガクガクになってしまっていたのでこの先へ進むのは断念しました。
下りの途中、行きにはすっ飛ばしてしまっていた御馬屋から桜馬場の途中にある、赤尾屋敷跡へと続く道の分岐と首据石を発見。 近道をして見逃してました。
かなり長い行程でしたが、見学するところが沢山あって楽しかったです。 今度来るときは別の道から登ってみたいですね。 登り切った後の疲れた体には、麓の須賀谷温泉でゆっくりするのをお勧めします。 戦国時代には浅井長政をはじめお市の方や家臣の武将たちが訪れたといわれる名湯なんだとか。
(渡)
小谷城
浅井氏の居城小谷城は、滋賀県東北部に位置する小谷山上にあり、湖北平野のほぼ中心にあってこれを一望することができます。 北陸道と中仙道の要所をおさえ、びわ湖へも近く、まさに重要な地にあります。
今も尚、山上には浅井三代の城の遺構が、ふもとの清水谷には浅井氏や家臣団の屋敷跡が残っていて、典型的な中世山城として、国指定の史跡になっています。 小谷城址は規模もきわめて壮大であり、地形を巧に利用した独特の工夫もこらされており、日本五大山城の一つに数えられています。
(湖北町観光協会発行『小谷城見聞録』より)
- 所在地
- 滋賀県長浜市小谷郡上町
- 指定文化財
- 昭和12年(1937)国指定史跡
- 城郭構造
- 山城
- 築城主
- 浅井亮政
- 築城
- 永正13年(1516)【大永3年(1523)~大永4年(1524)説も】
- 廃城
- 天正3年(1575)
- 参考文献
- 中井均『戦国の堅城』学習研究社、2004年7月、84頁-89頁。
中井均『近江の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版、2006年11月、32頁-35頁。
『日本城郭大系』第11巻 京都・滋賀・福井、新人物往来社、1980年9月、228頁-232頁。