2010/11/17訪問
郡山城にやってまいりました!
全景はこのようになっています。
本丸以外は高校や民家になっているので、見学できない場所が多々あります。
三の丸も現在はスーパーの駐車場が建っていました。
近鉄郡山駅を降り、線路沿いに西大寺方面へ歩いて行けば早速石垣発見!
鉄(くろがね)御門跡の南側です。
まず外堀を回ってみました。
石垣と線路を沿って北上したら、東隅櫓が見えてきました。
櫓の左手は陣甫(じんぽ)郭跡です。現在は民家が建ち並んでいます。
もっと北上したら桜御門跡に。
そして北東隅の石垣。
外堀の東側は線路沿いですが、郭跡に民家が建っていたり五軒屋敷池(元水堀?)が残っているためか開発による破壊は免れているようでした。
外堀北側に行ってみましょう。
案内板のとおり空堀です。今は草が多い繁っています。
落差を考えると、堀に沿って道路が作られたことが分かりますね。
柳里恭屋敷跡に到着。外堀折り返しです。
西御門跡の方へ行けば二の丸跡になるのですが、高校の敷地になっているので外から見える範囲でしか城跡は見学はできません。
西御門跡の石碑も学校敷地内でフェンス越しでした。
南御門跡の方へ出て、鷺池を左手に臨みながら外堀南側を外遊。
坤(ひつじさる)櫓跡は残りがいいのでよく分かります。
坂を下れば外堀をぐるっと一周しました。
柳御門跡・頬当門跡・大手堀が交差点側に残っています。
さて本丸に参りましょう。
鉄御門跡を通って行くと内堀が見えてきました。
竹で仕切ってあったので何だろう?と思ったら水質浄化実験を実施しているようでした。
内堀東側はよく見るとまっすぐでなく、緩くカーブになっていました。
追手門と、追手向櫓。
追手門東側の石垣は古い石材でした。
スケール(人物)は約150cmです。
こうして見たら石垣の大きさが分かりますね。
昔の人の平均身長もこれくらいなので、登るのは難しかったことでしょう。
さて追手門を抜けて毘沙門郭跡へ。
今は庭園として整備されており、四季折々の草木が植えられていました。
内堀東南隅の郭跡には柳沢文庫があります。
極楽橋跡。
かなり高低差があります。
攻め込んでも橋が落とされたら難儀ですね…。
本丸には現在柳沢神社があります。
さて天守台です。
まずは厩向櫓跡の方からぐるっと一周してみました。
天守台の北側の石垣にはさかさ地蔵。
築城のために石材が不足し、寺の庭石・礎石・五輪塔なども接収していて、所々に見られました。
では石垣を登りましょう。
登りました。
周辺の景色がよく見渡せます。
二の丸跡は高校になっているためほとんど見学することはできませんでしたが、外堀・内堀・本丸は残りがよくて面白かったです。
本丸や内堀は攻め入ってみる側の気持ちで回ると更に面白いと思います。
(久)
郡山城
1580年(天正8)8月、「大和一国破城命令」により郡山城を残して他の城郭は破却された。同年11月、筒井順慶が織田信長の援助を得て大和国守護になり、以前の城主であった郡山辰巳は殺され、家来衆は筒井順慶に組み込まれた。
本格的に築城(縄張り)が開始されたのは1585年(天正13)豊臣秀長が入城してからになる。
1858年(安政5)12月に二の丸から出火し、住居向きの建物がすべて焼失した。三年後、1861年(文久元)に再建されたが、1873年(明治6)3月に県令137号により入札・売却され運び去られた。
- 所在地
- 奈良県大和郡山市城内町
- 築城
- 1162年(応保2)
文献上の初見が『東南院文章』「郡山者件狼唳之輩張雁陣之城」- 廃城
- 1873年(明治6)県令137号
- 城郭構造
- 輪郭式平山城
- 関係する城
- 伏見城、郡山城
- 資料
- 『戦国合戦大辞典 4』戦国合戦史研究会/新人物往来社/1989
『日本城郭大系 10巻』児玉幸多・坪井清足監修/新人物往来社/1980
『郡山城と城下町-ふるさとの歴史を訪ねて-』郡山城史跡・柳沢文庫保存会/- HPなど
- 大和郡山市
http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/
郡山城史跡・柳沢文庫保存会公式HP
http://www.mahoroba.ne.jp/~yngbunko/