2011/10/2訪問
滋賀県米原市番場にある国指定史跡鎌刃城址にやって来ました。 今回は「湖北センゴクセミナー」に同行させていただきました。
鎌刃城址は南と北どちらからでも登れますが、今回のルートは北(番場)からです。 休憩を含め、約一時間の山道を経て山頂へたどり着きました。
山道なのですが、大堀切を通過してからがらりと様相が変わります。
写真の地形をよく見ていただいたら、尾根が人工的に掘削されているのがお分かりになるかと思います。本来なら左から右へと尾根が続いているのですが、それが分断されています。 ここからが山城ですよ、という目印です。 かなり深く、広く、平らに削ってあるのがお分かりいただけるでしょうか。
大堀切の上には北端の曲輪があります。 馬蹄形をしており、削り残して作られた土塁がぐるっとめぐらされています。
へこんでいる所には半地下構造の櫓があったようです。
北端の曲輪より一つ上の曲輪には石垣で固めた通路があります。 枡形虎口なのですが門があり、山の東側から玄関のように入れるようになっています。
鎌刃城址には主郭にも枡形虎口がありますが、そちらも同じような作りになっています。
尾根を伝って主郭へと向かいます。 平らにならしてありますね。
主郭の虎口へと続く道です。 こうやって一列になると、戦国時代も一列になって登っていたのだと分かりますね。
主郭の枡形虎口です。
右端に門柱の礎石があります。 階段を登れば門があり、まっすぐに主郭へ入ることができます。 虎口なのですが、「さあどうぞ」と言わんばかりの作りですね…。
主郭の西側には石垣が積まれており、北側の斜面にも残っています。
更に行ってみましょう。
主郭から南の副郭です。
堀切によって分断されていますが、まだまだ先があります。
ちなみにスケール(人物)は約150センチです。
副郭から南尾根に向かいます。 尾根には7本の堀切が設けられており、かなり険しい道が続きます。 尾根の両側は絶壁です。
「鎌刃」という名称の由来は、この堀切が鎌の刃のような印象を受けるためだとも言われています。
南へと進んで行きます。 自然の地形そのままを利用し、また整備もしてないので本当に手付かずの道を進むことになります。
岩も障害物として使っています。 左側に回ったら通れなかったので右に出るところです。
堀切が急な場所では降りるのにも一苦労です。撮影中のカメラマンもカメラ片手に頑張っています。 かなり高低差があります。
くどいようですが、スケール(人物)は約150センチです。
まだまだ行きましょう。
ロープが張ってありますが、立ち入り禁止ではなくて滑落防止のためのロープです。 これを持ってどんどん進めます。
尾根が終わり、南端の堀切に到着しました。 やはり勾配は急です。
ここで副郭へと戻ります。 帰りは尾根ではなく、山道です。 山道もかなりの勾配でしたが…。
副郭の西にも堀切があり、そこには連続竪堀群があるのですが、今回の登城では時間がありませんでした。残念…。
鎌刃城は北に小谷城・南に佐和山城を臨める「境目の城」と言われていますが、堀切の連続する南尾根を歩いてみて、それを遺憾なく体験しました。 今は木が生えているので周囲の見通しに限界がありますが、鎌刃城が実際に使われていた当時は木が伐採されていた状態だったので、あんな険しい尾根を渡っていたらすぐに発見され狙われてしまいますね。
(久)
鎌刃城
北に小谷城・南に佐和山城を臨める城で、京極・浅井氏にとってはまさに「境目の城」であった。
城主は堀氏。最後の城主・堀秀村のとき、浅井氏を見限って織田氏に寝返っている。鎌刃城が文献上に登場する最後の記述は天正3年『武徳編年集成』に「(略)信長公ヨリ江州鎌羽ノ米穀二千俵ヲ以テ、神君ニ贈ラレ境目ノ要城ニ入置ルベシト云々(略)」とあり、鎌刃城の米二千俵を徳川家康に与えたのち、破城となった。
平成10〜14年度に調査発掘を行っており、その際に石垣が検出された。石垣の城は天正4(1576)年安土城から建築され始めたと思われていたが、鎌刃城は安土城とは違う石積の技術で作られた石垣の城であった。湖北には織田氏に先駆けて石積の技術を持っている地域があった一例となった。
平成17年には戦国時代の遺跡で国の指定史跡になり、戦国史でいかに重要な城であったかが認められた山城である。
- 築城
- 15世紀後半~16世紀後半
- 廃城
- 天正3(1575)年
- 所在地
- 滋賀県米原市番場
- 城郭構造
- 山城
- 参考資料
- 中井均『近江の山城 ベスト50を歩く』サンライズ出版(2006)