2010/12/14訪問
天下分け目の関ヶ原から北西に7~8kmほどのところに伊吹山がある。日本百名山の一つで、頂上が平になった独特の山容は、東海道新幹線や名神高速道路を通る旅行者からもおなじみだ。その伊吹山から南に延びる尾根の標高660m付近の台地に、中世山城として名高い上平寺城趾がある。麓からの比高は約330mあり、濃尾平野と近江盆地をつなぐ通路が最も狭くなった交通の要衝ににらみを利かせている。
その上平寺城に、落語家の春風亭昇太師匠と一緒に登ろうというイベントがあり、参加してきた。
午前9時半。米原市にある伊吹薬草の里文化センターに集合。青空は冴え渡り、きんと空気が冷えて体が引き締まる。マイクロバスに分乗し、総勢70人の城好きが上平寺城の麓にある伊吹神社まで移動した。
伊吹神社の境内地には、上平寺城を築城した京極氏の居館であった、上平寺館趾がある。参道を進むと、左右に、弾正屋敷跡、隠岐屋敷跡などが並び、奥に京極氏居館跡、さらに奥には庭園跡がある。蔵屋敷跡では、ちらほらと石垣状の遺構も見られた。
広々とした京極氏居館跡に参加者が一旦集合し、本日の注意事項などを受ける。次に本日の主役となる三氏が紹介された。まずは落語家の春風亭昇太師匠。中学生の頃からの城好きで、中でも中世の山城が大好きらしい。次に城郭研究家の加藤理文氏。静岡を拠点に、全国の中世~織豊期城郭の研究をされているナイスガイ。最後にこのイベントの主催者である、城郭遺産による街づくり協議会理事長の中井均氏。個性的な城キチ三人衆である。
お三方を先頭に、70人の参加者が小グループに分かれて、いよいよ尾根上の上平寺城を目指して出発となった。伊吹神社の鳥居の前で神社の参道から別れ、山道に分け入っていく。小さな沢を渡り、斜面を斜めに横断するように登っていく。米原市教育委員会の方が何人か、スタッフとして同行し、全体をまとめてくれている。途中、別の登山道と合流し、緩やかなカーブを描くように落葉の積もった細道が続く。40分ほど登ったあたりで、カーブが小刻みになる「七曲り」と言われるあたりを通る。間も無く、最初の見所である竪堀群に到着した。
竪堀群に到達したところで、教育委員会の方からここの竪堀について説明があった。自分は隊列の中央より後ろにいたので、前のほうの参加者には、ひょっとすると主役のお三方からの説明があったのかもしれない。
近年の調査により、上平寺城の虎口手前の斜面に11本もの竪堀が見つかったとのことで、その中でも最大規模で、登山道を横切って続いている竪堀を囲んで、しばし説明に耳を傾ける。11本あるといっても、登山道から直接見えるのは3本程度で、あとは木々の間に分け入っていかないとその姿を拝むことはできない。最大の竪堀の中を通っていって、その頂点から向こう側を見ると、次に大きな西端の竪堀が見られるとのことで、少し寄り道になるが行って写真を撮ってきた。
まだ説明は続いていたが、一人先回りをして城域に入ってみた。虎口を抜けると、上平寺城で最も広い「曲輪VII」である。土塁などのない広い空間で、ここに兵を集結させていたのだろうか、いくつもの倉庫群が建っていたのだろうかと、想像を巡らせる。ここから一段高くなったところが「曲輪VI」で、合わせて三の丸とも呼ばれるエリアだ。
「曲輪VI」を抜けると、この城最大の見所と言ってもいい、堀切と枡形が見えてくる。この奥にある「曲輪IV」はL字状の形をしていて、周囲には土塁が巡らされている。L字状のへこんだ部分が「枡形空間V」で、攻城側がVIから土橋を渡ってVに入ると、右側にあるIVの土塁上から横矢が掛かることになる。横矢を掻い潜って進んでいったとしても、導線は正面の土塁から右に折れて狭い虎口を通ってIVへと続く形になっており、ここでも正面の土塁からの攻撃を受けることになる。
この土塁は、高いところでは3mほどもあり、下の写真には土塁上に人物が写っているが、このような高所から攻撃されたらひとたまりもない。
「曲輪IV」の土塁に登ってみた。下からだと3m以上の高さがあるが、「曲輪IV」の中からだと2mもないぐらいの高さだ。しばらく待っていると、隊列の後半組がやってきた。先程も解説をされていた教育委員会の方が、土橋の前で、ここに集まってください~、注目~、というようなことを言っている。若手の職員を呼び付けて、土塁に登って守備兵の役をやれと言って、まさにここが上平寺城の見せ場である演出を始めた。実際土塁の上から見下ろすと、特に枡形に対して横矢を掛けるような行為では、戦いに負けるような気がしない。実に上手く作られた縄張りであることが実感できる。
「曲輪IV」から一段上がった狭い空間が「曲輪III」になる。ここも周囲は土塁が巡っている。この2つの曲輪を合わせて二の丸とも呼んでいるようだ。
「曲輪III」から先の狭い通路を進むと、東側に1本、西側に2本の竪堀が見える。西側の竪堀の頂点あたりから、遥か西側を望むと、山岳寺院弥高寺跡が見えた。このような近距離にあるということは当然、当時から、上平寺城と弥高寺は緊密に連携しあっていたのだろう。現在の登山道でも、30分ほど歩けば弥高寺跡に辿り着くということだ。
「曲輪II」は主郭に対する帯曲輪的な存在だ。「曲輪III」から続く導線に沿って進むと、右側に「主郭I」を見上げる格好になる。道なりに進むと主郭には登れずに、搦手の堀切側に出てしまった。まっすぐ主郭には登らせないぞという、考えられた縄張りが、現代の城好きに対しても生きているのだ。
搦手の堀切は、この城一番の規模を誇る大堀切で、狭い土橋を設けて尾根をぶつりと断ち切っている。上平寺城の城域はここまでで、この先は登山道となっていて、弥高寺へと通じている。
「曲輪II」に戻り主郭を見上げると、本日の主役のお三方と、何人かの参加者の方とが談笑されているのが見えた。後から聞いたことだが、お三方は、普通の人が4~50分かけて登ってくる山道を30分ほどでさっさと登ってしまっていたということだった。これは、山道なんかさっさと終わらせて、早く城まで辿り着きたいという思いが為せる業なのだそうだ。
「曲輪II」から主郭へは、踏み跡ともいえる狭い通路を通って登っていく。これは元々存在した道ではなく、現代の人が主郭に登るために開拓した道で、元来の主郭への道がどこにあったのかはわかっていない。このあたりも、考えて作られた縄張りの賜物だ。
主郭に全員が集合したところで、中井先生による説明、昇太師匠による感想などを挟んで、ランチタイムとなった。朝配られたおにぎりを頬張り、冷たいお茶で喉を潤す。標高差300m以上を登ってきたので、12月とはいえ体はほくほく温まっている。しかし、しばらくじっとしていると、逆にかいた汗が冷たい風で冷やされて、少し寒くなってくる。70人がバラバラに分かれて食事をしているところに、昇太師匠が回ってきて記念撮影をしてくれた。
主郭には、申し訳程度の低い土塁が巡っている。「曲輪IV」の土塁は1570年に浅井氏が改修したものだそうだが、こちらのほうは古い時代の京極氏によるものがそのまま遺っているらしい。
主郭の南東側は眺望が利いていて、遠く濃尾平野が見渡せるようになっている。この日は天気も良く、写真ではわかりづらいが、名古屋駅のツインタワーまで見ることができた。こんな状況なら、関ヶ原側から近江へ軍勢が侵入してきても、手に取るようにわかるだろう。
主郭をはじめ各曲輪ではきれいに下草が刈られていて、ある程度は木も切ってある。また登山道も登りやすいように適度に手入れがされている。行き過ぎた整備ではなく、往時に思いを馳せ、想像を巡らせるのに丁度良い手入れ加減が心地良い。地元の上平寺集落の方々の努力のおかげである。最後に参加者全員で記念撮影をして、山を下りた。
再びマイクロバスに分乗し、伊吹薬草の里文化センターに帰着。午後2時半からは、文化センターのホールを舞台に、お客さんも増え、昇太師匠の「おも城噺」、お三方の鼎談、とイベントは続く。大いに笑わせてもらって、暗くなった中を家路についた。
なお、上平寺城のあたりは熊が出るので、決して一人では登らないように、とのことだ。
(前)
上平寺城
永正年間(1504-21)、京極高清によって築かれ、麓の上平寺館、城下も整備された。伊吹山の南側、弥高山の刈安尾根の台地上で、美濃と近江をにらむ位置にあった。大永3(1523)年、京極氏の内紛によって焼失した。
元亀元(1570)年、浅井長政が、信長に対抗するために朝倉氏の援助を受けて城を改修したが、城を守備していた樋口氏、堀氏の信長への内通により明け渡された。
- 所在地
- 滋賀県米原市弥高
- 城郭構造
- 山城