2010/11/24訪問
保津城は、丹波国の入口、明智越と呼ばれる道と保津川の水運とを睨む、交通の要衝に作られた山城です。創建は南北朝期にさかのぼります。
亀岡の街から保津川を渡って、東側にある保津の集落を抜けると明智越ハイキングコースの入口があります。車で来ると道が分かりづらく、停める場所を探すのにもちょっと苦労します。
落葉で滑りやすくなっている道を進んでいくと、まず開けた右手にかつて屋敷でも建てられていたのであろう区画が見えます。さらに行くと、一段高くなったところに、竹薮に覆われた次の区画があります。道の左手には道標らしき小さな石柱がありました。
しばらく進むと、右手に堀切が見えました。堂々とした立派な堀切です。
その堀切の上端付け根のあたりで、道は二手に別れます。左が水尾、嵯峨へと続く明智越。右は保津城の奥へと続きます。
右側の道の右側は広く深い谷になっていて、「土取り場」と呼ばれています。左右の道の間は「空池」と呼ばれていて、普段から空っぽの池の跡です。一時水を溜める遊水池の役割を果たしていたのかもしれません。
土取り場と空池の間の土橋を渡って細い道を行くと、竪堀が見えてきます。最初の竪堀は比較的浅めながら、今歩いてきた道の上下を連続して結んでいます。
もう少し先にある2本目(と3本目)の竪堀が圧巻で、堂々とした太さと深さを誇ります。しかも2本の竪堀が近接していて見応えがあります。
火の用心の看板と小さな物置き小屋のあるあたりから、左にある尾根筋を登っていきます。比較的小さな平坦地を次々と通ります。
しばらく行くと高圧線の鉄塔が立っていて、わかりやすい目印になります。少し広めの郭ですが、鉄塔を立てる際に広げたのか、最初から広い場所だったので鉄塔が立ったのか。さてどうなんでしょうか。
そこからさらに尾根筋を登ります。小さな平坦地を通っていくと、また道標のようなものがありました。これで三ヶ所めの「南五(?)」です。どういう意味なんでしょうねえ。
その道標のところで、今まで続いてきた小郭群がなくなり、空池のところで分かれてきた明智越の道に合流します。右のほうへ行くと山を越えてしまうので、ここは左へ。
最初の別れ道のところまで戻ってきました。ここを右へ折れるとスタート地点に戻りますが、ここはまっすぐ郭の中へ入ってみます。すると土塁状に土が盛ってあるところがありました。盛り土に沿った堀切を下りていくと、やがてアスファルトの道路に出ます。実はこっちが保津城の大手側で、スタート地点だった明智越の入口は搦手側だったようです。
ざっと回ってきましたが、もうちょっと注意深く見て回れば、もっと色んな発見があったかもしれない、そんな風に思える城趾でした。
(前)
保津城
丹波国と山城国を結ぶ「明智越」と呼ばれる道の入口に位置する。現在はハイキングコースとなっているが、かつては馬がすれ違うことのできるぐらいの道で、人馬が行き交い、眼下の保津川とともに重要な交通路であったといわれる。観応3(1352)年、中津河小次郎秀家が保津城を攻め落とした(『遠山家文書』)という記録が残る。
- 所在地
- 京都府亀岡市保津町山ノ坊
- 城郭構造
- 山城