2011/11/20訪問

第18回全国山城サミット浜松大会の2日目に行われた現地見学イベントに参加して、「別郭一城」とよばれる一連の城である二俣城、鳥羽山城に登ってきました。山城サミット初日の報告はこちらに。

鳥羽城址 腰曲輪(現パーキング)にて

朝8:45浜松駅前のクラウンパレスに集合の後、バス4台で現地見学に出発。 前日の大雨が嘘のような快晴でした。

忍者(浜松市職員)と天竜観光協会の方 天竜区応援隊の皆さん(市職員)

市内から約40分、鳥羽山城駐車場(腰曲輪)にて開会。 忍者装束の方は市の職員さんで、天竜区応援隊、オレンジの半被の方は天竜観光協会の方です。

鳥羽城址下から見た二俣城址と堤防(民家部分は元二俣川が流れていた所・川底) 二俣城址から見た鳥羽城址と堤防・右の川は天竜川 かつての二俣川

開会後、向かいにある二俣城へ。 上記写真左にある土手・右手の住宅地部分には昔二俣川が流れており、上記写真右の天竜川に合流していました。 歩いている土手がちょうど両河川の合流地点ですね。

登り口

二俣城登り口です。

本丸パノラマ(二の丸から見た180°) 本丸パノラマ(360°)

本丸です。 中央の広場は未だ調査が入っていないので憶測ですが、何かしらの建物あったのではないかと考えられているそうです。

天守台

天守台です。2010年の調査によると、現在見えてる天守台は下に一段分埋もれていることが判明。 見た目ももうすこしだけ高かったのでしょうね。

天守台角・算木積み

天守台隅石・算木積みです。

天守台に登る参加者 天守台パノラマ(180°)

皆で天守台に登りました。 結構狭いです。

本丸から望む天竜川(北)

天守台の上から北側の斜面を覗くと天竜川が眼下に流れていました。 こうして見ると結構高さがあります。

本丸北門

本丸北門。ここを進むと北曲輪があるのですが、今回は時間がなく省略です。。

本丸中仕切り門と土塁(両側) 説明風景(中仕切門)

本丸中仕切り門。2009、2010年の調査で礎石が確認されて規模が判明したそうです。 その際瓦も出土したことから、中仕切り門は瓦葺の建物だったことがわかっています。

二の丸から見た中仕切門側面(奥が本丸) 二の丸土塁 二の丸土塁

二の丸から見た中仕切り門です。 二の丸東側土塁の調査の際に二の丸から中仕切り門に至る降り口を探したそうですが発見できなかったそうです。

大手門 大手門石垣(当時のままの方・向かって左)

大手門です。整備の際にコンクリートで階段を作っています。 正面向かって右手が積み直し、左側が現存の豊臣方勢力下の堀尾氏時代に築かれたものと考えられています。

蔵屋敷(左)二の丸斜面(右)間の堀切【断面箱型】 蔵屋敷(右)と二の丸(左)間の堀切 堀切(二の丸土塁より)

二の丸南側(二の丸と蔵屋敷の境)にある断面箱形の堀切です。 実際の堀はもう少し深かったはずですが、今のままでも上から覗き込むとかなりの深さがあります。

二俣城址 水の手推定地

二俣城の水の手であったと推測されている井戸曲輪です。 崖下を通っていた二俣川から水を汲み上げていたと考えられていますが、水量や立地から鑑みて少し説に無理があるのではないか、とのことでした。

二俣城址遠望
鳥羽城址遠望パノラマ

つづいて鳥羽山城です。

大手道・現代整備(本来の幅6m以上) 大手道・現代整備(本来の幅6m以上)

大手道です。本来の幅は6m強、安土城の大手道に匹敵する大きさです。 現在の階段は鳥羽山城公園化の際に敷かれたものです。 坂の奥にそびえる石垣(本丸東側)は鳥羽山城で一番高く積まれています。

大手道北側・石垣 大手道北側・石垣 大手道北側・石垣

大手道の北側に深さ数メートルにわたって石垣が埋没していることが、2009年の発掘調査で確認されています。 今目視できるのはその上端部でしょうか。

大手門説明風景 大手門西側・暗渠

本丸入口の大手門での説明風景です。看板の下奥の四角い穴が暗渠です。

本丸からの遠望(南東)

本丸から南東方面(二俣城とは逆方向)の風景です。見えているのは天竜川です。 このお城も眼下に天竜川や二俣川に挟まれた天然の要塞なのだなぁ実感しました。

本丸パノラマ 本丸パノラマ

本丸です。こちらは天守台は見当たりません。 そのかわりに礎石建物跡や庭園遺構などが確認されているそうです。

本丸通用門(両脇・土塁) 本丸通用門(両脇・土塁)

本丸通用門です。 門幅があまりないことから開き戸ではなく跳ね上げ戸があったと考えられています。

庭園遺構

庭園遺構と礎石建物の発掘調査場所です。 迎賓機能を備えた領主の居館と推定されています。

搦手門(南から) 搦手門(北から)

搦手門です。 木が邪魔でよくわかりませんが、中央奥に二俣城が見えました。

本丸西側腰巻石垣 本丸西側腰巻石垣

本丸西側の腰巻石垣です。 草が生い茂って見えませんでしたが、上段の土塁部分(鉢巻石垣)と下段の基底部(腰巻石垣)の二列の石垣が配されています。

今回は二俣城と鳥羽山城の2城を一気に回ったのですが、時間が限られていたこともありかなり駆け足での見学になってしまいました。 今度は個人でじっくりと攻略してみたいですね。

(渡)

二俣城と鳥羽山城

現在みられる二俣城と鳥羽山城の基本的な姿は、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いを契機に今川氏によって形作られました。 永禄11年(1568)、今川氏の滅亡により、両城は家康が領有するようになりましたが、三方原の戦いがあった元亀3年(1572)、二俣城は武田信玄によって攻略されました。 その後、長篠の戦いが繰り広げられた天正3年(1575)まで、徳川氏、武田氏が二俣城をめぐり激しく攻防戦を展開しています。 武田方にあった二俣城を攻める際には、鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれています。

天正18年(1590)、家康の関東移封に伴って、堀尾吉晴(豊臣秀吉の重臣、浜松城主)の弟、堀尾宗光が二俣城に配属されます。 堀尾氏の時代になると、二俣城と鳥羽山城の主要部には石垣が巡らされ、二俣城には天守が築かれました。 二俣城が戦時用の施設として機能を高めていくに従い、鳥羽山城は領主が日常生活を送る場として整備されるようになったとみられます。 二俣城には天守や瓦葺きの建物が建てられる一方、鳥羽山城には大規模な大手道が整備され、本丸に庭園が造られるなど、両者のあり方は対照的です。 二俣城と鳥羽山城は「別郭一城」とよばれる一連の城であることが、二つの城の特徴から読み取ることができます。

こうして、本格的な城郭として整備が進められた二俣城と鳥羽山城でしたが、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後には戦略拠点としての重要性は薄れ、廃城となりました。

〈浜松市役所市民部文化財課発行「二俣城・鳥羽山城 探訪マップ」より〉

所在地
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
築城
不明(16世紀前半から中葉)
廃城
慶長5(1600)年
城郭構造
山城・別郭一城
資料
天竜市編『遠州鳥羽山城:発掘調査報告』天竜市刊、1976年
web
浜松市文化財情報
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/square/intro/bunkazai/