2011/4/26訪問
本日は安土城の登城です!
駐車場の真ん前にある広場(内堀跡の内側)に西側上段郭と竃跡が発掘された場所があります。
山裾には石垣が張り巡らされていました。 おそらく上記写真左(西石垣)は手つかずのもの、右(東石垣)は整備時の復元と思われます。
現在の入り口です。石段の前には登りの大変さを思わせる杖置き場がありました(ボランティアの方の寄付か何かでしょうか・・)。 正面の大手道は、とにかく広いし大きいです。 まるでどこかの神社さんの参拝に来たような気分になりました。
高さが約3メートルといったところでしょうか。 安土城を「山城」だと聞いていたので、初っ端からの石積みに驚きました。
写真右の階段を登ると上段郭・中段郭・下段郭の開けた部分に至る道があったのですが途中で封鎖されていたので断念。 とりあえず復元図で想像するしかないようです。。
大手道を挟んで伝前田利家邸の向かいにある伝羽柴秀吉邸。 下段郭は厩があったと考えられています。
ここは、伝羽柴邸最大の屋敷跡の礎石群が出土しており、大手門に面した門は高麗門と推測されています。
大手道の石段は一段の高さがとても高いので、165㎝の身長のわたしも一段ずつしか登れません。 その際足元に石段に転用された五輪塔や石仏を発見。 当時石材が足りなかったための転用かもしれませんが、なんとも罰当たりな気分になります。
少し手前の伝徳川家康邸あたりから道がジグザグに曲がりくねっているうえに段が高いので頻繁に立ち止まりながらしか進めません。 このしんどさは日頃の運動不足のせいだけではないはず。。
途中本道から外れた小道を行くと摠見寺墓地を発見。
墓地の少し奥上方に見つけた石垣は二の丸下虎口の石垣でしょうか。 斜面が急すぎて登るのは危険と考え断念。。
墓地から引き返し大手道に戻る途中、カーブの登り道を短縮できるだろう階段を見つけたので登ってみました。 と、登り口には書いていなかった進入禁止の文字とロープが。。 どうせなら下にも張っておいてほしかったですね。
黒金門に至る少し手前に伝織田信澄邸址・森蘭丸邸址を発見。 現在は下草や木々が生い茂っており全体像がわかりませんでした。
黒金門の虎口。門に登る直前までの急こう配と両側に聳える石垣に圧倒されます。
曲がりくねった虎口を抜けると、目の前に二の丸土台の石垣が聳えていました。 道が左右に分かれていて、左へ行くと伝長谷川邸跡を通り天主台下にぐるっと廻れるはずなのに通行止めでした。
右へ進むと二の丸へ至る虎口。 虎口といっても道幅が広いので左右にそびえる要塞を意識しなければ大手道のようでした。
虎口を抜けて左手にある二の丸の階段を上がると二の丸址に織田信長公廟が建っています。 最近増えている歴女の皆様に人気の場所なんだとか。。
右へ進むと本丸に至るのですが、ここもまた次の郭への入り口が極端に狭くなっているように感じます。 もちろん左右に櫓なりがあったはずなので、一気に攻め込まれる心配もなさそう。 攻め込むには面倒臭そうな造りですね・・・
いよいよ本丸です。 三方に出入り口があって、個人的に「本丸」という印象ではなかったですね。 そこに至るまでに虎口やら何やらで防御しているのでしょうけど出入り口が多すぎるような気がしました。
本丸の南東側出入り口と三の丸です。 この先も未整備で進入禁止でした。
本丸取付台跡から見た北出入口と虎口です。 上から眺めると侵入者を見つけて攻撃しやすそうな虎口ですね。 この先にある八角平も進入禁止です。 未整備部分が多いお城です。
やっとこ天主台です。
礎石の数も多いし思っていたよりも大きいです。六角形と聞いていたのですが歪な感じがしました。
天主台から北側の景観です。 遠くに見えるのは琵琶湖でしょうか、生憎の天気でハッキリとは見えません。
天主台から見た二の丸登り口と本丸へ至る虎口です。 礎石の高さからこれだけ見渡せるということは建物からの防衛力は想像に難くないですね。
伝織田信忠邸跡と伝武井夕庵邸跡の間の小道を辿ると摠見寺へ辿りつきます。
開けた台地の左脇に三重塔が急に現れました。 なんだか埋もれているようなアングルですね。
摠見寺台地から眺めた西の湖です。
百々橋口を下ると仁王門がありました。 ここまでの階段もなかなかに急な下りで膝が笑ってました。 天主閣までの行程は、城郭に登っているというよりも何かの宗教施設に登っているような感じでしたね。
(渡)
安土城
安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年の天正4年(1576)に始まります。 築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。 まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。 築城開始から3年後の天正7年(1579)には天主が完成して信長が移り住み、信長の居城としての安土城が完成しました。 しかし、その3年後天正10年(1582)に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。 それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護のもとで信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。 しかし天正13年(1585)、小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、安土城はその役目を終えて廃城となるのです。 その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。
(滋賀県立安土城考古博物館発行『特別史跡 安土城跡』より)
- 所在地
- 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
- 城郭構造
- 山城
- 天守構造
- 望楼型地上6階地下1階
- 築城主
- 織田信長
- 築城
- 天正4年(1576)~天正7年(1579)
- 廃城
- 天正13年(1585)
- web
- 滋賀県観光情報
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=831- 参考資料
- 木戸雅寿『よみがえる安土城』吉川弘文館(2003)
中井均『近江の山城 ベスト50を歩く』サンライズ出版(2006)